縦横切替
 道で花を摘んだ。名前は知らない。黄色の小花に桃色の小花。それから白い小花も。
 この間空いたばかりのジャムの壜に水を注し、花を挿した。
 電気をつけていない部屋は、昼間の場合、外のほうが断然明るい。窓際においた花は逆光で、輪郭がぼやけて見える。
 どこかで携帯電話が震えたような気がした。探そうと手を伸ばしたが、私の携帯電話は着信メロディが流れないどころか、バイブレーションも切ってあるのだった。電話にしろメールにしろ、私に何かを伝えてくることはないはずなのだった。だからきっと、震えたのは隣の部屋の住人の携帯電話だろう。
 伸ばした手を下ろそうとしたが、虫の知らせかもしれないと、やはり携帯電話を探すことにする。探すといってもいつも同じ場所でずっと充電しているのですぐに見つかる。開いてみたら、やはり着信もしていなかったし、受信もしていなかった。
 窓の外からは微かに鳥の声が聞こえるが、人の声は聞こえない。時々ニンニクの匂いが届く。どこかの家の昼食はスパゲティなのだろう。
 先生にもらった文庫本を開く。先生はもう、どこにもいないのだが、先生にもらった文庫本は確かに私の部屋にある。読み終わってしまったら本当に先生がいなくなってしまいそうな気がして、いつまでも最終章に手をつけることが出来ない。
 先生のお通夜には行ったが、お葬式には行かなかった。お墓にも行ったことがない。行けない。
「父はこんなに慕われていたのですね」
 涙を浮かべる娘さんの姿を見て、私はそうはなれないと思ったのだ。
後書き
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