居候 縦横切替
 父は、絵に描いた父、というような人ではなかった。母に「お茶」しか言わないであるとか、「誰のお蔭で食えているんだ」と騒ぐわけでもなかった。煙草は吸わなかったけれど、お酒はちょっとだけ飲んだ。賭け事はしなかった。女は……いなかったと思う。あまりに静かに、たんたんと家族を養っていた。存在感がなかったとも言える。
 亡くなったあと、声を思い出せなくなっていることに気付いたのは、亡くなったあとそう長い時間が経ったあとではなかった。
 兄と姉が出て行ったあと、母も亡くなり、家に私一人になった。建て売りの一軒家だったが、私一人でも充分広い。様々な荷物を捨てたら、余計にそう思えるようになった。
 だから、気付いたのはしょうがなかったんだろうと思う。
 台所で自分一人分の食事を作っていると、背後に気配を感じた。
 振り返ると、五人で使っていたダイニングテーブルに、父が座っていた。一瞬幽霊かと思ったが、昨日放っておいた新聞を手にとって読んでいるのだ。過去の記憶だとしたら、今日の日付であるはずがない。紛れもなく生きている父であった。
 父は生きているときのように何もしゃべらなかった。お茶も要求しなかったし、誰のお蔭で食えてるんだとも言わなかった。……それはそうか。この食費は全部私の給料から出ている。
 一人分の食事を並べ、父の方をうかがうと、父は新聞をひたすら読んでいた。
 忘れてしまった声がどのようなものであったか気になったが、父は何も言おうとはしなかった。
 死んでしまった父が、生きてここにいる。十年か、十五年か、そのくらい前の姿で。
 何をしているのか、なんでここにいるのか、今自分が何をしているのか……話しかける言葉も思いつかず、静かに大根の味噌汁をすすった。
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