一人の山路 縦横切替
 長い長い道をのぼっていた。山頂を目指していたのだが、なかなか辿り着かない。道を間違えてはいないはずなのだが。
 背の低い笹を足でかきわけながら、砂利道を歩く。川のせせらぎが聞こえるので、いざとなればこの川にそっておりていけば人里に戻ることができるだろう。
 今日の天気は曇りだったが、雨が降りそうではない曇りなので安心はしている。だが、木々の葉の間から光が差し込まないのは、妙に陰鬱なものだ。
 鳥の鳴き声が聞こえる。子どもの頃に行った林間学校で、あの鳴き声は鳩だと聞かされてがっかりした思い出がよみがえる。今、聞こえている声も、鳩なのだろうか。
 黙々と登っていくと、時折花が見える。アザミのように名前を知っている花もあれば、名前も知らない黄色い花もある。どれも群生することなく、ちらほらと顔を覗かせるばかりだ。
 バディシステム、という言葉が頭をよぎる。怪我や病気をしたときでも、もうひとり人間がいれば問題に対処できるという。山や海に行くときの基本的な振る舞いの一つであるが、あいにく今日は一人であった。
 今日は、ではない。いつも一人であった。山に登る趣味をもつ唯一の友人は、結婚して今頃家族サービスにあけくれていることだろう。たとえ暇だったとしても、家庭をもつ人間を遊びに誘うことはためらわれる。結果、一人で登ることになる。
 携帯電話を確認すると、電波はまだ届いているようだった。山頂の方が電波を遮断するものが少なく、かえって通話がしやすいという話を聞いたことがある。本当か嘘かは知らないが、どちらにしろ電波が届いているだけで心強かった。今のバディは携帯電話なのだ。
 昨日雨が降ったわけでもないのに、やけに湿った道を歩く。虫が出てこないのは幸いだった。
 急に道が途絶えた。正確には、砂利道が途絶えた。斜面を登る急な坂道が目の前にあった。坂道といえば聞こえがいいが、土と木の根っこしかない道だ。
 一つ朗報としては、その坂道には黄色と黒のロープがかかっており、いくつかの木からはチェーンが垂れ下がっているということだ。確実に人間の手が入っている。この道であっていたらしい。
 早速チェーンにつかまりながら、坂道をのぼっていく。初心者向けの楽な登山といっても、時折こういうものがあるから楽しい。チェーン一本分のぼったら、そこから手を伸ばして次のチェーンに。五本分くらい登ったところで、チェーンにつかまらずとも登れる程度の坂道までやってきた。見下ろすと坂道というよりは崖のようで、よくこんなところを登ってこれたなとも、帰りに本当におりれるのだろうかとも思えた。
 先に進んでいくと、今度は低い背丈の草でおおわれた場所に出た。笹もズボン越しに刺さっていたいが、草も負けてはいない。かき分けるように進む。ある程度人の手が入っているのは分かるのだが、夏場の草の伸びに、草刈りの頻度が追いつかないようだった。
 ふと足元を見ると、等間隔に模様がついていた。しゃがみ込んでみてみると、なにやら小動物の足跡のようだった。こんな都会からすぐの山にも何がしかの動物が住んでいるのだな、と思ったが、都会ができたあとに山ができたのではなく、山ができたあとに都会ができたのだから、何も不思議なことはなかった。
 小動物の足跡を消してしまうのがもったいない気がしたため、避けて歩く。幸い小動物は草と道の境を歩いていたらしく、歩くのに不自由はしなかった。
 がさり、という音がした。
 右前方から音が聞こえてきたが、姿は見えない。辺りは低い草ばかりのため、大型の動物は隠れようがなかった。足跡の主だろうか。蛇だったらあまり愉快ではないな、と思って立ち止まる。何が出てくるかと見ていると、見憶えのある耳が見えた。うさぎである。
 こちらの様子を窺っているのだろうが、ひどく無防備にも見える。近付いて耳を握ればつかまえられそうな具合である。
 脅かすのも趣味ではないので、うさぎが行くまでじっとしていようとしたが、うさぎはいよいよどうしていいのかわからなくなったのか、その場にとどまってしまった。
 にらめっこは少しの間続いた。
 腕時計を確認するとさして長い時間でもなかった。せいぜい一分か二分といったところだが、じっと息を殺している時間はひどく長く感じる。
 いつまでもこうしているわけにもいかない。息を吸い込んで、わざと音を立てて歩く。うさぎの耳はあっと言う間に草の間に見えなくなり、どこか遠くへと走っていってしまった。
 驚かしてしまっただろうかと思ったが、他の動物と出会った場合も同じように驚くことがあるだろうと思って自分を納得させた。
 しばらく歩くと、急に車のエンジン音が聞こえてきた。木々を抜けると、だしぬけに車道が現れた。車道を歩くハイキング客が、ぎょっとした顔でこちらを見る。道があると思っていなかったところから、人が急に現れればそれは驚くだろう。だが、うさぎを驚かしたときよりも圧倒的に罪悪感はなかった。
 申し訳程度に白線が引かれた歩道を歩けば山頂はもうすぐそこである。
 天気は悪いし、一人だが、山頂で食べる弁当はさぞかしおいしいものだろうと思う。
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